Moe Japan News@もえじゃぱ

日本のニュース専門まとめ。アジアをとやかく言う前にまずは日本やろ。

戦争と平和

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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723171243/

1: 蚤の市 ★ 2024/08/09(金) 11:40:43.66 ID:bd9bRGiE9

 長崎市で9日に開催される平和祈念式典を米英などの駐日大使が欠席することについて、林芳正官房長官と上川陽子外相は8日の記者会見で、「式典は長崎市主催の行事で政府としてコメントする立場にはない」と繰り返し、政府としては式典をめぐる長崎市と米欧諸国との対立に距離を置く姿勢を示した。ただ、官邸幹部によると、政府は水面下で長崎市側に「外交問題になり得る」と懸念を伝えていたという。

 林、上川両氏は8日のそれぞれの記者会見で、判で押したように4度、「コメントする立場にはない」と繰り返した。「式典に誰を招待するかは主催者である長崎市の判断」(林氏)との立場を強調した。

 ただし、官邸幹部によると、式典へのイスラエルの招待見送りを検討する長崎市に対し、政府側は事前に「外交問題になり得る」などと懸念を伝達。こうした水面下の交渉は政府側から長崎市側にアプローチしたといい、この幹部は「被爆の実相を伝える意味でも多くの国に参加していただくべきだった」と語った。

 政府内では「市が主義主張に…(以下有料版で,残り461文字)

朝日新聞 2024年8月9日 10時00分

【政府、長崎市に「外交問題化も」と懸念伝達 米大使ら式典欠席】の続きを読む

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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1719130888/

1: BFU ★ 2024/06/23(日) 17:21:28.65 ID:B82Ctkyd9

太平洋戦争末期の沖縄戦で、最後まで激戦が続いた沖縄県糸満市。23日の沖縄慰霊の日を前に、同市の仲間進栄さん(88)が79年前を振り返り、「日本兵に何度も脅された」と語った

1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。仲間さんの母や妹らは本島北部へと避難した。仲間さんは当時9歳。祖父母と共に最南端の糸満市に残ったが、戦火を避けるため、家を出て近くの斜面に横穴を掘ってつくった「ガマ」で生活するようになった

そんな生活が続いたある日、日本兵がガマに入ってきた。「出て行け。ここは私たちが使う」。銃を構えて言い放ち、仲間さんらを追い出した。

 住むところを失った仲間さんらが再びガマをつくると、別の日本兵が「ここは危ない。別のガマに逃げた方がいい」と言ってきた。言葉に従ってガマを出た後、様子を見に戻ると、複数の日本兵が中で談笑していた。

 日本兵にガマを追われたのはこれに限らない。戦況が厳しくなると、沖縄本島南部に逃げ込む日本兵が増え、何度も脅され、だまされた。最後は海辺の鍾乳洞に逃げ込んだという。

ある夜、鍾乳洞の外で激しい爆発音がした。外に出てみると、すぐそばに迫った米戦艦が近くに潜む日本兵を攻撃していた。

 ふんどしを白旗代わりにして降参しよう。そう思った矢先、日本兵が「自決しよう。捕まったらひどいことをされるぞ」と銃を渡してきた。信用できるか―。何度もだまされた仲間さんらは制止を振り切って白旗を掲げ、米軍に保護されたという。


【日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る】の続きを読む

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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1717422410/

1: 蚤の市 ★ 2024/06/03(月) 22:46:50.78 ID:5CIb6L1G9

ことしの長崎原爆の日に行われる平和祈念式典について、長崎市の鈴木市長は、現時点ではイスラエルの駐日大使に招待状を送らない方針を明らかにしました。イスラエルが軍事作戦を続けるガザ地区の人道状況や国際世論を踏まえたと説明しています。

長崎市の鈴木市長は3日の会見で、8月9日の長崎原爆の日の平和祈念式典の招待国について検討した結果、現時点ではイスラエルの駐日大使に招待状を送らず、代わりに即時停戦を求める書簡を送ることを明らかにしました。

一方でパレスチナ暫定自治政府の駐日代表部の代表には、例年どおり招待状を送るということです。

イスラエルの駐日大使をめぐっては、同じ被爆地の広島市は式典の挙行に影響はないとして、これまでと同様に招待する考えを示していて、長崎市の対応に注目が集まっていました。

鈴木市長は「ガザ地区における危機的な人道状況やそれに対する国際世論の状況を踏まえれば、式典において不測の事態が発生するリスクが懸念される。大切なのは原爆の犠牲者を慰霊することであり、式典の運営が阻害されてはならず苦渋の決断だ」と述べました。

長崎市はイスラエルのほか、ウクライナ侵攻を続けるロシアやベラルーシを除く154の国と地域に、近く招待状を発送することにしています。

NHK 2024年6月3日 22時41分

【長崎市長 原爆の日の平和祈念式典 イスラエルに招待状送らず】の続きを読む

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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1714657361/

1: 蚤の市 ★ 2024/05/02(木) 22:42:41.69 ID:jbd7ehsX9
 日本国憲法は3日、1947年の施行から77年を迎える。毎日新聞が4月20、21の両日に実施した全国世論調査では、岸田文雄首相の在任中に憲法改正を行うことについて尋ねたところ、「賛成」との回答は27%で、「反対」との回答の52%を下回った。

 2022年4月の調査は「賛成」が44%、「反対」は31%と賛成が上回っていたが、23年4月の調査では「賛成」が35%、「反対」は47%と賛否が逆転している。2年連続で「賛成」が減少する一方、「反対」が増加した。首相は自身の自民党総裁任期中に憲法改正を目指すと発言しているが、9月末に1期目の任期満了が迫る中、世論の機運は高まっていない。

 支持政党別に見ると、自民党支持層では「賛成」が6割弱、「反対」は約2割だったが、公明支持層では「賛成」が2割弱にとどまり、「反対」は4割弱だった。改憲に積極的な日本維新の会の支持層でも、「賛成」と「反対」が拮抗(きっこう)した。立憲民主党の支持層では「反対」が約7割に上った。「支持政党はない」と答えた無党派層では「賛成」が2割弱、「反対」は6割弱だった。男女別、年代別では、いずれも「反対」が「賛成」を上回っている。

 9条を改正して自衛隊の存在を明記することについては、「賛成」が49%で、「反対」の34%を上回った。自民支持層で「賛成」が7割強を占めた一方、立憲支持層では「反対」が約5割、無党派層では賛否が拮抗した。

 緊急事態の際に国会議員の任期を延長できるようにする憲法改正については、「賛成」が31%で、「反対」の48%を下回った。自衛隊明記、議員任期延長のいずれも2年連続で「賛成」が減少し、「反対」が増加する傾向となっている。【佐藤慶】

毎日新聞 2024/5/2 17:00(最終更新 5/2 17:57)
https://mainichi.jp/articles/20240501/k00/00m/010/109000c

【現政権下での改憲「賛成」27% 2年連続で減少 毎日新聞世論調査】の続きを読む

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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1615346615/

1: ramune ★ 2021/03/10(水) 12:23:35.57 ID:IQnScSWe9
 本日(2021年3月10日)で東京大空襲(下町空襲)からちょうど76年目となる。
この時の日本の総理大臣は、陸軍出身の小磯国昭(こいそくにあき)であったことは周知のとおりである。
戦争という国難の中、首都東京が米軍の爆撃により灰燼に帰すという一大時において、一国の宰相たる小磯はどうふるまったのか。76年目の今、簡潔に振り返る。

・陸大卒、参謀本部勤務のエリートだった小磯国昭と朝鮮支配
(中略)
 小磯は1880年、栃木県宇都宮の旧士族の家に生まれた。そののち陸軍士官学校から陸軍大学に進み、
参謀本部での勤務を経た「典型的陸軍エリート」であり、現役と予備役を繰り返すも、
太平洋戦争開戦直後の1942年5月、第八代朝鮮総督となる。

 小磯総督は日中戦争以降国策になった「内鮮一体」を強力に推し進め、現地朝鮮人の登用などを推し進めたが、
これらは戦争勃発による人的資源を節約するためであり、日本側の都合に過ぎなかった。

戦局が悪化する1944年5月には、それまで「志願こそは忠誠の象徴」として志願制だった朝鮮での兵役を徴兵制として、
朝鮮の青年人口を全て戦争遂行につぎ込む強権的な同化政策を押し付けた。小磯は「朝鮮のトラ」と呼ばれた。

(中略)
さて東条英機の失脚により急遽、朝鮮総督から内閣総理大臣になった小磯国昭は、
それまで存在した「大本営政府連絡会議」を「最高戦争指導会議」に改編して陸海軍部と政府の一体的集約を狙ったが、小磯の指導力不足でうまくいかなかった。

 小磯は典型的な非科学的精神論者で、総理就任後「一億総武装」を掲げ、「伊勢神宮必勝祈願」を国民に呼びかけた。
これは、1944年12月11日の午後1時22分に、その場にて1分間の黙祷を伊勢神宮に行うことで精神的勝利を得るというもので、
要するにカミカゼ思想であるが、全く意味不明であった。
(中略)
小磯は昭和天皇が危惧した経済について無知なばかりか、近代戦に対しても全く無理解であった。
小磯は典型的な「一撃講和論者」であった。
「一撃講和論」とは、フィリピン方面に上陸する米軍に一矢報いて、その余勢をかって有利な条件で連合国と和平を結ぶという考えで、
小磯はこの考えに従ってフィリピン、レイテ方面での日米会戦を「大東亜戦争の天王山」と表現した。

 しかし現実は、レイテに上陸した米軍は、日本のフィリピン統治の悪さから抗日ゲリラに転じた民衆と連携して、
圧倒的な火力で日本軍を粉砕してフィリピンの首都マニラが陥落した(1945年3月)。
また米機動艦隊と輸送船団を撃滅する予定だった連合艦隊も、レイテ沖の戦いで壊滅し、日本海軍は事実上消滅した。

このような中、1945年3月10日の東京大空襲がやってくる。

(中略)
小磯国昭首相は、3月10日の東京大空襲から約2週間後の3月21日に、「国難打開の途」として国民にこう呼びかけた。
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この敵に対する報復の道はひとつしかないのです。
即ちその野望を粉砕するまで戦って戦って戦い抜き、その驕慢なる鉾先を目茶苦茶に叩きのめすことであります。
(中略)

皇国日本人なればこその悩みであり、焦燥であり、全身全霊を打ち込んで、この苛烈な戦争に突入して行きたいという
全国民のこの真剣な叫びこそは、われわれ同胞が遠い神代の昔から承け継いで来た血脈に流れる
醇乎(じゅんこ)たる愛国の至誠そのものの発露といはなければなりませぬ。

私はこのような国民の魂からの叫び声を聞く度に、勇気づけられ、励まされ、
どうしても勝つ、断じて戦ひ抜くといふ気魄(きはく)がむくむくと生れて参ります
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東京大空襲によって10万人の死者が出た直後、小磯首相が国民に訓示したのは、
このような徹頭徹尾の精神論に彩られていたが、米軍の都市空襲に対してなんら科学的、軍事的な対応を語ることは無かった。

全文
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210310-00226674/

【東京大空襲から76年 当時の宰相・小磯国昭 徹底した精神論で危機を乗り切ろうとする無能さを振り返る】の続きを読む

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