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1: ramune ★ 2021/03/10(水) 12:23:35.57 ID:IQnScSWe9
 本日(2021年3月10日)で東京大空襲(下町空襲)からちょうど76年目となる。
この時の日本の総理大臣は、陸軍出身の小磯国昭(こいそくにあき)であったことは周知のとおりである。
戦争という国難の中、首都東京が米軍の爆撃により灰燼に帰すという一大時において、一国の宰相たる小磯はどうふるまったのか。76年目の今、簡潔に振り返る。

・陸大卒、参謀本部勤務のエリートだった小磯国昭と朝鮮支配
(中略)
 小磯は1880年、栃木県宇都宮の旧士族の家に生まれた。そののち陸軍士官学校から陸軍大学に進み、
参謀本部での勤務を経た「典型的陸軍エリート」であり、現役と予備役を繰り返すも、
太平洋戦争開戦直後の1942年5月、第八代朝鮮総督となる。

 小磯総督は日中戦争以降国策になった「内鮮一体」を強力に推し進め、現地朝鮮人の登用などを推し進めたが、
これらは戦争勃発による人的資源を節約するためであり、日本側の都合に過ぎなかった。

戦局が悪化する1944年5月には、それまで「志願こそは忠誠の象徴」として志願制だった朝鮮での兵役を徴兵制として、
朝鮮の青年人口を全て戦争遂行につぎ込む強権的な同化政策を押し付けた。小磯は「朝鮮のトラ」と呼ばれた。

(中略)
さて東条英機の失脚により急遽、朝鮮総督から内閣総理大臣になった小磯国昭は、
それまで存在した「大本営政府連絡会議」を「最高戦争指導会議」に改編して陸海軍部と政府の一体的集約を狙ったが、小磯の指導力不足でうまくいかなかった。

 小磯は典型的な非科学的精神論者で、総理就任後「一億総武装」を掲げ、「伊勢神宮必勝祈願」を国民に呼びかけた。
これは、1944年12月11日の午後1時22分に、その場にて1分間の黙祷を伊勢神宮に行うことで精神的勝利を得るというもので、
要するにカミカゼ思想であるが、全く意味不明であった。
(中略)
小磯は昭和天皇が危惧した経済について無知なばかりか、近代戦に対しても全く無理解であった。
小磯は典型的な「一撃講和論者」であった。
「一撃講和論」とは、フィリピン方面に上陸する米軍に一矢報いて、その余勢をかって有利な条件で連合国と和平を結ぶという考えで、
小磯はこの考えに従ってフィリピン、レイテ方面での日米会戦を「大東亜戦争の天王山」と表現した。

 しかし現実は、レイテに上陸した米軍は、日本のフィリピン統治の悪さから抗日ゲリラに転じた民衆と連携して、
圧倒的な火力で日本軍を粉砕してフィリピンの首都マニラが陥落した(1945年3月)。
また米機動艦隊と輸送船団を撃滅する予定だった連合艦隊も、レイテ沖の戦いで壊滅し、日本海軍は事実上消滅した。

このような中、1945年3月10日の東京大空襲がやってくる。

(中略)
小磯国昭首相は、3月10日の東京大空襲から約2週間後の3月21日に、「国難打開の途」として国民にこう呼びかけた。
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この敵に対する報復の道はひとつしかないのです。
即ちその野望を粉砕するまで戦って戦って戦い抜き、その驕慢なる鉾先を目茶苦茶に叩きのめすことであります。
(中略)

皇国日本人なればこその悩みであり、焦燥であり、全身全霊を打ち込んで、この苛烈な戦争に突入して行きたいという
全国民のこの真剣な叫びこそは、われわれ同胞が遠い神代の昔から承け継いで来た血脈に流れる
醇乎(じゅんこ)たる愛国の至誠そのものの発露といはなければなりませぬ。

私はこのような国民の魂からの叫び声を聞く度に、勇気づけられ、励まされ、
どうしても勝つ、断じて戦ひ抜くといふ気魄(きはく)がむくむくと生れて参ります
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東京大空襲によって10万人の死者が出た直後、小磯首相が国民に訓示したのは、
このような徹頭徹尾の精神論に彩られていたが、米軍の都市空襲に対してなんら科学的、軍事的な対応を語ることは無かった。

全文
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210310-00226674/

【東京大空襲から76年 当時の宰相・小磯国昭 徹底した精神論で危機を乗り切ろうとする無能さを振り返る】の続きを読む